The otter-trawl fishery led the capitalistic fisheries development in Japan and was characterized by an investment from outside the fisheries section and a typical capitalistic management by reason of this imported large-scale fishery. This fishery was developed in the East China Sea and the Yellow Sea apart from the coastal areas where conflicts with the coastal fisheries were caused frequently. This paper describes the development process of this fishery before the Second World War in both view points of the economic management and the covering of the entire sea area. The development process is divided into four periods. (1) Fisheries establishment-the First World War After some wooden boat trials, the steel otter-trawl fishery gained ground in 1907 and expanded rapidly by vigorous outside investment while including any speculators. The technology was transferred to domestically. The government exchanged the policy from encouragement to isolation of the fishing ground to the East China Sea and the Yellow Sea. Due to over-fishing and malmanagement during the recession, the trawl fishery fell into a slump. However, at the moment of rapid rising boat-prices during the War, almost all boats were sold out. (2) The First World War-the beginning of the Showa era When the trawl boats became few left, the government restricted the number of boats available for protection of fish-stock and the trawl fishery itself. As boat-prices went down a few years after the War, trawl boats were constructed again up to the limitation. Compared to before the War, the boat owners were selected on the marine industries relative persons list. The Kyoudo-gyogyo Company increased by collecting the boats, heightening productivity through an introduction of new technology, and settling the branch factory in Taiwan. While a large number of pair-boats trawl embarked to the East China Sea and the Yellow Sea, it resulted in a severe competition with the ottertrawl fishery and the captured fish had changed from valuable breams to material fish of the paste. (3) The Great Depression-the China-Japan War During the Great Depression, trawl fisheries managements fell dull, while the Kyoudo-gyogyo Com. rationalized through a settlement of its own base, and consolidated other trawlers resulting in the exclusive position of the otter-trawl fishery, and advanced to the pair-boats trawl fishery. Further, this company built for the first time a diesel boat installed with a freezer capable of working on the distant voyage. This company settled a branch factory in Hong Kong, however it didn't continue by reason of the anti-Japanese movement against the Manchurian Incident. After the depression, a rise of fish price together with inflation improved its management. (4) the China-Japan War-the Asia-Pacific War During the war time, a lack of fisheries material, a conscription of the boats and the crews, and also the war damage annihilated the trawl fishery ultimately. Kyoudou-gyogyo Com. and other trawlers had been reorganized toward the nationally controlled company, while the newly established companies in Taiwan and in Shanghai had accomplished their roll to supply the fishes until the end of the War., 汽船トロールはその発祥から第二次大戦までの40年弱の期間を,社会経済情勢や許可隻数と漁獲高の推移から4期に分けることができる。 (1) 明治41年から第一次大戦まで 明治41年に汽船トロールが英国から導入されて確立する。それ以前の木造船はもとより,同時に国内で建造された鋼船もその性能において大きく劣っていた。漁獲成績が良かったことから漁船数が急増し,国産技術として確立するのも早かった。参入してきたのは,漁業と無縁な投機家や造船所,汽船捕鯨の関係者などであった。造船所は日露戦後の沈滞を打破する業種として,汽船捕鯨は隻数が制限されて新たな投資先として同じ汽船漁業のトロールに注目したのである。投資規模,漁業技術ともに在来漁業とは隔絶しており,経営方法も会社組織による資本制経営がとられた。トロール漁業者は大きく九州勢と阪神勢に分かれ,互いに反目し,統一行動が出来なかった。トロール経営は漁労中心主義で経営を考えない粗略なものが多かった。初期の汽船トロールは規制がなく,沿岸域で操業したことから沿岸漁民・団体の猛反対を受け,政府も該漁業を大臣許可漁業とし,沿岸域を禁止漁区にするとともに遠洋漁業奨励法による奨励を廃止した。禁止漁区の設定で,漁場は朝鮮近海に移るが,新漁場が次々発見されて漁獲量が増大し,魚価も維持されたので明治42・43年には早くも黄金期を迎えた。トロール漁業の根拠地は,漁場に近く,漁港施設,漁獲物の鉄道出荷に便利な下関港を中心に,長崎港,博多港に収斂した。トロール漁業誘致のため,漁港施設・魚市場の整備が進められ,魚問屋の中からトロール漁獲物を扱う業者が現れた。トロール船の急増で漁場が狭くなり,禁止漁区の侵犯が頻発すると,禁止区域が拡大され,漁場は東シナ海・黄海へ移った。漁場が遠くなって経費が嵩む一方,魚価が低下するようになってトロール経営は一転して不振となった。ただ,漁船は惰性で増加を続け,大正2年には最大となる139隻に達した。苦境を脱する方法として,多くの経営体は合同して経営刷新を目指した。その代表が阪神勢を中心とした共同漁業(株)である。これら業者は第一次大戦が勃発して船価が急騰すると欧州などへ売却してトロール漁業から退散する。一方,生産力を高めてトロール漁業に留まった田村市郎率いる田村汽船漁業部は第一次大戦中の魚価の暴騰による利益を独り享受しつつ共同漁業を掌中に収める。台湾にも内地より数年遅れで内地のトロール船を用船する形で導入された。だが,島内の鮮魚需要は弱く,定着しないまま,第一次大戦によって漁船が売却されて中断している。機船底曳網とは違い,汽船トロールは現地の他漁業の反対により台湾・香港以外を根拠地とすることがなかった。 (2) 第一次大戦後から昭和初期まで 第一次大戦でほとんどのトロール船が売却されたのを機に,政府は隻数制限と一定の船舶能力を求めた。戦後,船価が下がってトロール船の建造が始まり,大正12年に70隻の制限隻数に達した。戦前と戦後ではトロール漁業は一変した。船主は少なくなり,とくに投機家や捕鯨関係者が姿を消し,共同漁業が最大手として支配力を高めた。その他に造船所や北洋漁業関係者の参入があった。北洋漁業関係者は,北洋漁業の再編成と絡んでトロール漁業と関係した。汽船トロールが制限隻数に達した頃から以西底曳網が台頭し,トロール漁業と同じ東シナ海・黄海に進出して漁獲競合が始まった。以西底曳は汽船トロールに比べて,生産性はやや劣るものの,初期投資,漁業経費ははるかに少なく,収益性に遜色がないことから,下関や長崎の魚問屋や徳島県漁業者によって急成長をうげた。以西底曳網の大量進出もあって,漁獲物はタイ類が急激に減少し,ねり製品原料の「潰し物」が中心となった。資源の維持と漁業調整のため,以西底曳網に対しては新規許可の停止と50トン未満にトン数規制をし,汽船トロールに対しては東シナ海・黄海で操業しない場合は70隻制限の対象外とされた。これを機に以西底曳網を集積した林兼商店などが汽船トロールに参入し,反対に共同漁業は以西底曳網を取り込むようになった。共同漁業はトロールの技術改良を先導し,無線電信の装備によって,魚価と販売状況を見ながらの生産・出荷対応をとるようになり,VD 式漁法の導入によって生産性を大幅に高めた。戦後は不況が続き,魚価が低迷する中で,他社からトロール経営を委託されるようになった。台湾においても大戦後,トロール漁業が再興したが,需要が停滞して中断し,昭和2年に共同漁業が蓬莱水産(株)を設立し,VD 式漁法を持ち込んで,3度目にしてようやく定着した。 (3) 昭和恐慌期から日中戦争まで 昭和恐慌により,生産量はやや減少したが,魚価が暴落して金額は急落した。以西底曳網は漁船の大型化が認められ,汽船トロールとの競合がますます激化して,トロール経営は厳しさを増した。共同漁業への経営委託,さらには共同漁業へのトロール船の売却が進み,トロール漁業では共同漁業が独占的な地位を築いた。共同漁業にとって,受託経営より直接経営の方が漁業経費の節減,付加価値の向上に有利と判断した。その共同漁業は,昭和2年に世界初のディーゼルトロール船を建造し,5年からは船内急速冷凍機をつけて,南シナ海,ベーリング海へ出漁するようになった。スチーム船に比べ,漁船は大型化し,長期航海が可能となった。漁船の建造費は高いが,漁業収入,漁業経費,漁業粗利益ともディーゼル船の方が高くなった。漁業経費のうちト料費はスチーム船と変わらなくなった。重油価格の低下と電動ウィンチの開発によってディーゼル化が可能になった。ベーリング海はミール工船事業が始まり,その付属船として使用されたが,事業は成功しなかった。この期間,ミール工船の事業者がトロール船の船主として顔を出す。また,共同漁業は昭和4年末から根拠地を下関から戸畑に移し,関連企業を集積して一大総合水産基地を構築する。漁業用資材,トロールや以西底曳網,流通・加工部門を統合して,経費の節減と付加価値の向上を図った。この共同漁業にあって田村汽船漁業部以来一貫してトロール経営の実務を担当したのは国司浩助であり,新技術の導入と科学的合理的な経営手腕によってトロール漁業の発展を導いた。台湾の蓬莱水産は,昭和6年に共同漁業と共同で香港を根拠地として南シナ海で操業する会社を設立する。香港での販売と同時に,郵船・商船を利用して内地,台湾などとの販売ネットワークを構築した。しかし,世界恐慌による不況と満州事変を契機とした排日運動により,香港以外での販売,トロール船の台湾への退避を余儀なくされた。 (4) 日中戦争からアジア・太平洋戦争まで 日中戦争の勃発によりトロール船及び乗組員の徴用が始まり,また漁業用物資の欠乏が顕著となって,トロール漁獲量は低下から急落へと向かい,戦争の深化とともに崩壊した。魚価は一時的に財政・軍事インフレのために暴騰し,第2の黄金期を現出したが,その後,終末へと向かう。共同漁業は関連水産企業を統合し,日産コンツェルンの傘下で日本水産(株)となった。元々,共同漁業の田村市郎,国司浩助らは日産コンツェルンの総帥・鮎川義介とは人的なつながりがあり,早くから提携している。共同漁業は南シナ海の他に,昭和10年代初めに豪州沖,中南米沖出漁を始めたが,いずれも戦争の足音が高くなると中止となった。南シナ海へは林兼商店も出漁している。台湾でのトロール漁業は,香港から退避したトロール船を加えて,南シナ海への出漁が一時,興隆したが,徴用によって規模が縮小し,終戦を迎える。他に昭和13年に占領地・上海に国策水産会社が設立された。日本水産や林兼商店などがトロール船や機船底曳網漁船を現物出資した。水産統制令によって昭和18,19年に日本水産,林兼商店,そして台湾のトロール会社はいずれも統制会社に再編された。ただし,その頃にはトロール船も機船底曳網漁船も壊滅状態であった。, 長崎大学水産学部研究報告, 94, pp.29-55; 2013